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旧園舎の内観・外観・建替中の様子


建て替え工事は無事進んでおります。(2023年4月現在)
進捗状況は追って更新します。




 杉並学園に携わってきたボランティアの方々や職員から、杉並学園の思い出について語ってもらうコーナーを設けました。



Vol.03 杉並学園と私


 70歳を前にして思うこと。若い時の体力も気力も失せた今、来し方を振り返り、これまでの社会とのかかわりを少しばかり綴ってみたいと思います。
 子どもたちの夏休み、施設では朝から賑やかな声が飛び交い、一日が始まります。私は、指導員として長い勤務を始めるのです。勤務時間はあってないようなもの。それが夏休みでした。 令和、平成、昭和と遡るとき、それは私にとって仕事と家庭が同時並行で進行した時期でした。いや、むしろ仕事優先のことが多かったかもしれません。学園に住み込んでいた私にとって勤務とは形だけのものでした。いつも子どもたちと一緒にいることが当たり前の生活でした。



 結婚を機に通勤するようになっても、しばらくはあまり大きな変化はありませんでした。年末になると、学園全体の大掃除とは別に事務所や応接間を中心に節雄先生と私たち指導員は半日、いや一日、大掃除の日がありました。当時、玄関の正面に鎮座?していた古ぼけたミシン(シンガーミシン)は移動させるとズシリとした重さがありました。まさに鉄の塊のようでした。園長(芳俊)先生になぜここに置いてあるのですかと聞いたことがありました。すると園長先生は「このミシンは質種になって学園を救ってくれた大事な代物だから…」と。戦後の復興の経過の中、東京都(府)からの入金はたびたび滞り、八百屋や肉屋、そして魚屋など出入りの業者のみなさんへの支払いをするため、ミシンが質屋へ行ったり来たりしたとのこと。私たちにとっては邪魔なものに見えましたが、園長先生にとってはかけがえのないものだったのです。


前列左端  森 節雄
前列左から3人目  丸山 文男氏

 ここで、少しばかり当時の施設の様子と併せて「社会福祉」について述べてみたいと思います。私は昭和50年春、東京都社会福祉協議会に施設の求人を問合せ、3施設から求人があることを聞き、最初に紹介されたのが杉並学園でした。ご縁を得て、指導員として20年近くに亘るかかわりをさせていただきました。福祉という言葉には、ともにかかわるなかに喜びを感じることという説明があります。つまり福祉は一方通行の関係ではなく、かかわりあいの中で対象者と支援者がともに喜びを感じられる状況、それはボランティア活動にも通じることかもしれません。それまで、慈善事業、或いは社会事業と呼ばれていたものから、社会福祉への転換が実質的に行われた時期であったように思います。措置制度の下、施設は国や都からの公的資金が入り、子どもたちの生活から職員の身分保障まで整備されていきました。今日ボランティアという言葉はすっかり日本語として定着しておりますが、当時はまだ学生や特定の関心のある人の社会的なかかわりでしかなかったものが、一挙に広がりを見せ、まさに市民権をえた時期であったと言えます。



 私はこうした中、学園における学習ボランティア「ボサボサ」とのかかわりを通して得難い経験をさせていただきました。以来、当時のボサボサメンバーのみなさんとは今日まで学園を介した一つのつながりとして継続しています。夏には暑気払いを、そして暮れには忘年会と称して、旧交を温めております。元職員・ボランティアではなく、ともにあの時に杉並学園という場にいた人間同士として…。杉並学園は小規模施設ながら、野球、バレーボール、ドッジボール、そして卓球のチームを作り、夏は毎日毎日学校の体育館や校庭を借りて練習したことは今でも鮮明です。また全員自転車に乗って石神井や調布、三鷹まで出かけ、他施設との練習試合をしたこと、今思うとまさに冷や汗ものです。東京体育館や神宮の外苑球場で行われた大会で結果は多くが1、2回戦負けでしたが、野球では3位になったこともあったように思います。
 あの時みんなの頑張る姿を見て、施設が一体になれたこと。それはやはりスポーツの力だと今でも思っています。以降、施設の小規模化が叫ばれ、子どもたちの施設での生活スタイルが大きく変化した今日、まさに大舎的な暮らしは大家族的なノスタルジーでしかありませんが、そして今更当時に戻ることはできないと百も承知していますが、「あの時はよかった」と思えて来るのです。もちろん、好き嫌いや趣味は千差万別、スポーツが苦手な子、下手な子にとってはきっとつらい思いをさせてしまったのではないかと申し訳なく思っています。




 人は一人では生きていけない。人とつながり合うことで自分を確認し、前を向いて生きていくことができる。学園での出会いを大切に、これからももう少し頑張ってみたい。さて、最後に近況を報告させていただきます。学園を離れた後もいくつかの現場で福祉の仕事に従事してきました。新しい施設の立ち上げ、里親の仕事など、それはそれで私にとっては貴重な体験でした。10年前から今日まで、保護司として地域の青少年の更生保護にかかわっております。非行少年や犯罪者の支援に微力ながら取り組んでいます。時々の面接や訪問の中での成果は微々たるものですが、これも杉並学園での仕事の延長として私に与えられた役目であると受け止めております。今回、朋子さん(光明会杉並学園理事長 脇田朋子氏)から、ホームページ上での原稿依頼を受け、まさに思いつくままに文章にしてみました。文中に不適切な表現がありましたらどうぞお許しください。
元職員 丸山 文男氏


所感
 魚屋、肉屋の支払いのためにミシンを質屋に入れていた時代、子どもと職員が大家族のように暮らしていた時代。施設で暮らす子どもは社会のひずみからくる影響をもろに受け、それでも仲間や職員と肩を寄せ合いたくましく生活していた。
今日の杉並学園に昔日の面影を探すなら、貧困や暴力から保護された子どもたち、子どもの暮らしを支え、その成長に一喜一憂する職員。
児童養護施設として変わらぬ姿が今ここにあるように思う。
施設長 麻生 信也


Vol.02 長い歴史のある「杉並学園」での生活



△後方左端 郡嶋お兄さん(郡嶋 晨定氏)

△園庭にて(昭和40年頃)



 小生が学園にお世話になったのは、森芳俊園長先生と出会い、昭和42年3月から44年3月までの僅か2年間でしたが、我が人生の中でも貴重な体験でもあり、思い出の詰まった濃密な2年間でした。

 芳俊園長は穏やかで仏の慈悲を感じさせ、底知れない懐の広い人物でした。園内は子供たち、保母さん指導員、みなお兄さんおねえさんと呼び合い、小さな子供から大きな子供まで、女児男児それぞれ階を異にし、共に寝泊りをしながら人間模様を繰りひろげる大きな家族の輪のようでした。子供達が学校から帰ってからは、笑い声やはしゃぎ声が絶えず聞こえて賑やかでした。そんな中にも時には子供たち同志のケンカで大きな声を張り上げたり、泣き声が聞こえ来たり、また保母さんと衝突したりそれぞれが成長の過程を歩んでいました。その様子を芳俊園長はニコニコしながら眺めていたり、時には厳しくとがめたり、とにかくアットホームな学園でした。

 そんな園でしたが、専門職の職員は事務職兼副園長の節雄先生位で、あとは人生にとっても学園にとっても経験豊富で若い後輩にも慕われ穏やかな保母の山田おばさんを筆頭に、大田原、常国、岡、高橋、笹倉各お姉さん。そして、指導員という立場で下宿代わりに置いて頂いていた大学生の安江、江島、高校の講師を兼ねた小生の各お兄さん、経験も専門知識もさほどない職員集団でしたが、園長先生は良くみんなをカバーして下さいました。しかし保母さんは、縦割りの数人の児童を受け持ち、寝起きを共にして全て母親代わりとなって、産まれも育ちもそれぞれ違う子供達の面倒を見なければならないので大変だったと今になって改めて思います。





△軽井沢招待
△七五三お祝い
△園内お楽しみ会
 
後列右端  森 芳俊(創設者)
前列左から2人目  森 照子
後列左端  森 節雄
前列左端  森 美智子







 また、みんなの食事を受け持たれた節雄先生の奥さん美智子お姉さん、宇山、岩崎各おばさん達にも思い出深きものがあります。

 子供達はというと、夏休みを利用して避暑地軽井沢、千葉県の保田や興津への海へのご招待を受けたり、東児従主催の文化祭(新宿)では、お寺から大太鼓を借りて来ての学園全児童参加による盆踊りを大きなステージで披露し、特別賞を受賞したり等々各行事にも参加し、子供達の心の隙間と不安を少しでも埋めるべく、多くの協力者達から手を差し伸べて頂き、職員も共に願いながら過ごしていました。

 濃密な2年間を過ごさせて頂き、大恩ある芳俊園長先生、奥様の照子夫人、節雄お兄さん、そして奥様の美智子お姉さん、皆さん今はすでに極楽浄土に往生され、園舎も当時と姿を変え、良き思い出だけが我が人生の貴重な1ページとして残っています。

 後は、常に頭から離れぬ事は、その当時学園にいた児童達も現在は50歳半ばから60歳半ばになっている筈です。みんな暖かな家庭を持ち、幸せに暮らしているかどうか気がかりで、そうあって欲しいとただただ願うばかりです。



華王山淨蓮寺 現住職  
元職員 郡嶋 晨定(ぐんじま しんじょう)







Vol.01 進む会(ボランティアグループ)


 左の写真は令和元(2019)年10月のBBQに参加頂いた進む会の皆様です。 「進む会」は昭和29(1949)年に大学生(当時)を中心に結成されたボランティアグループです。 養護施設(現在は児童養護施設)との交流に長年に渡って取り組んでおり、その功績により東京都をはじめ、 いくつかの団体より表彰を受けている程です。
 杉並学園とのお付き合いも長年に渡り、現在でも夏休み中の1日お出かけや園庭でのBBQを通じて、 子どもたちの育ちを支えて下さっています。



△昭和30年頃、新聞に掲載されました

 私が50年以上前の大学生時代に進む会に入会した頃は森芳俊初代園長ご夫妻もご子息の節雄さんご夫婦もそしてそのお子さんたちも全員がおられました。福祉系の学生とは言っても何もわかっていないわけですから本当にご迷惑をお掛けしました。
当時の入園しているお子さんたちは主にいわゆる孤児と言われる貧困からの家庭崩壊による人達でしたが、現在は主に虐待されての原因からの入園とのことですから時代も大きく変わりました。 学習指導とか海や山のキャンプの同行とか職員旅行時の応援の留守番とかいろんなことをしました。 一番印象に残っているのは、大学の単位取得のための実習をお願いして泊まり込みで働かせて貰ったことです。 私は生まれつきの全身性の機能的な障害を持っていますから出来ないことも多く悪戦苦闘でした。 森園長ご夫妻は大変に優しい人たちでしたから苦笑いしながらもとても寛大にいろいろと指導してくれました。 園児たちにおねしょの問題を持つ者が多いので数時間ごとに起こしてトイレに連れて行くのに、私自身が爆睡していて起きられずに大量のお漏らし事件となったこともありましたし、学校の父兄会に行って学園の子たちの学業が余りに振るわないことを指摘されたり、問題児扱いされていたりでした。 お陰で私の実習の評価はオール5でしたが今考えても冷や汗物です。 その後私は都庁の福祉現場や民間の福祉現場の責任者を務め、現在もいくつもの理事長・会長等をしていますが、学園は正に私の学びの学園です。

進む会 春田 文夫様



△子どもたちにBBQを開催頂いてます
  古い話となります。その分記憶違いの所があればご容赦願います。
昭和38年の或る日、宮前三丁目の閑静な住宅街の一角!そう杉並学園が舞台です。当時双子のデュオ歌手として活躍していた「こまどり姉妹」がテレビ番組のために杉並学園を訪問したのです。日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の「こまどり姉妹の日曜日」という番組のロケです。森芳俊園長はじめご家族のみなさま、多くの子どもたち、職員の方々、進む会会員、私はメンバーの中の学生として参加していました。 こまどり姉妹は、瞳を輝かせている子ども、緊張している子どもたちに話しかけ、質問をしたり、一緒に歌ったりして楽しい時間が過ぎました。 後日、その時の様子が白黒テレビで放映されました。子どもたちはどんな表情をしているのか、職員の人は、我々会員は、と期待と不安を持ちながらテレビを注視しました。ガーン!不安的中です。こまどり姉妹以外の人は、当然のことながらメイクはしていないので、私自身で言えば残念ながら映り映えがしない画面でした。 テレビのロケ、有名人の訪問などは特別なインパクトがあるので、子どもたち(我々も)にとっては思い出深いイベントになりました。
進む会 志摩 懋様



施設の建て替えについて


 杉並学園の子どもたちが暮らす園舎は、建築されて50年以上が経ちました。雨漏り、傷、へこみなどが目立ちます。
そこで2024年の竣工を目指して、園舎の建替えを計画しています。計画の進捗についてこのページでご報告致します。


寄付金をご支援頂ける方


 杉並学園の未来ある子どもたちが、良い環境の中で育まれることを目指して、園舎建替えにご支援賜れれば幸いです。
ご支援頂ける場合、下記口座までお願いします。



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